NHKのドキュメンタリー「なぜ贋(がん)作は探し出せずにいるのか?ベルトラッキ詐欺事件|NHK 未解決事件」を観た。
“存在しない名画を生み出す”ことで世界を欺いたヴォルフガング・ベルトラッキ。その人物像と、今なお見つからない贋作の数々に迫る内容は、見応えと問題提起に満ちていた。
彼は約50人の画家になりきり、その技法・作風、画家の目録として画像が残されていない空白期間までも利用して、“本物が描きそうだった作品”を創り出した。その巧妙な手口にプロの鑑定士やコレクターたちでさえ気づけなかったという事実は、美術の価値基準そのものを揺るがす。
番組では、詐欺罪で6年間の服役後にインタビューに応じたベルトラッキの姿も映し出された。
驚くべきは、彼には反省の色がまったくない。
「私はコピーを描いたのではない。新しい絵を生み出しただけだ」
「画家の人生を生き、その視点で描いているだけだ」
そう語る彼の言葉には、罪悪感のかけらもない。
むしろ、作品が“本物として受け入れられた瞬間の恍惚”こそが、彼を駆り立てていたという。ここには、「贋作であってもバレなければ芸術である」という価値観が透けて見える。作品に付随する“画家の名前”こそが市場価値を左右し、感動の有無とは別に本物・偽物の判断が下される美術市場の脆さも見え隠れする。
昨年、高知県立美術館が所蔵作品の贋作をあえて公表した一方、贋作を手にした者たちの多くは沈黙を選ぶ。
贋作と判明すれば、美術館もコレクターも大きなダメージを受けるため、公表はごく少数派だ。
岡山県の山田養蜂場ギャラリーにも疑惑が及んでいるという情報もあり、ベルトラッキと番組中で対話の様子も映し出された。贋作への捉え方は、所有者によってもさまざまに受け止められる。
個人的には、こうした話題に触れると、音楽の世界との対比が興味深い。
音楽には「贋作」という概念がない。
表現者が作曲家の意図をどれだけ忠実に再現できるかが評価され、模倣そのものが価値となる。(他方、表現者ではなく、創作者として模倣ないしは盗作なんていうものは今昔厳しく罰せられてきたが…)
同じ“芸術”でありながら、片方には“真贋”が強く問われ、もう片方には存在しないという対照は、芸術の本質とは何かを改めて考えさせる。
絵画の世界は、真実と嘘が常に隣り合わせに存在する。その危うさやミステリアスな創造物もまた、絵画の魅力の一部なのかもしれない。
ベルトラッキ事件は、単なる詐欺事件にとどまらず、芸術の価値観そのものへの問いを突きつけてくるドキュメンタリーだった。
参考

