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東京にあるゴッホの《ひまわり》の話と名画を予習するということ

ゴッホの《ひまわり》の話

名画の鑑賞前に予習は必要か?

私は、小学生の頃から「予習」が苦手だった。
だからといって「復習」をちゃんとやる子供だったかと言えば、それもちょっとアヤシイのだが、せめて復習ぐらいちゃんとやらないとテストで良い点数が取れないよ、という親の言葉をそのまま信じていたので復習はソコソコ真面目にやっていたような気がする。

なぜ予習が苦手だったのかというと、これもちょっとあやふやな記憶であるのだが、思うにネタバレのような感覚が嫌だったのだと思う。新しいことを知る(発見する)ことが私はとても好きで、それは学校で言えば授業本番、そこで初めて先生が教えてくれることにドキドキするライブ感みたいなものが楽しい、と思っていたところがあった。
だからライブ感が半減する予習なんかやらなくても、復習をちゃんとやればよいのだと、妙な思い込みみたいなものがあったのだろう。

 

さて、これは前回の続きで今回もまた展覧会の話。

名画が揃う展覧会というのは告知ポスターを眺めるだけでもワクワク幸せな気分になる。
いざ鑑賞に出かけ気に入った作品一点一点噛みしめる楽しさもまた格別。

ここで私が常々思うのは、こうした展覧会に出かける前に予習していく人はどの程度いるのか? ということ。

小学生から予習することが苦手だった私は、これまで展覧会の前に予習らしい予習をしたことがほどんどない。
もちろん展覧会に行く動機は告知のポスターや記事などを見て行くと決めるのだから、何が展示されるのかぐらいは把握はしてはいる。しかし、せいぜいそんな程度だ。

周囲にきいてみると、展覧会の公式サイトやブログなどを通して鑑賞する作品だけでなくざっとその美術館の歴史や作品の背景といった情報くらいは目を通しているよ、という人が多いようだ。

それでも私は予習が必要だと思ったことはほとんどなかったし、小学校の授業と同じで感動はライブ感あってのもの。絵画こそ、感性の赴くままに絵画と対話したいと思ってきた。
展覧会には展示作品のそばに誰の作品か、制作年や時代背景などが記述されている、小さいパネルがある。あの情報さえも時には煩わしさを覚えることもあるのだから。

 

ゴッホの《ひまわり》は7点ある

 

ゴッホの《ひまわり》・・・この有名すぎる作品が、東京・新宿のSOMPO美術館に常時展示されていることを最近まで私は知らなかった。
1987年にオークションで58億円で落札されたそうでこれは有名な話だよと教えられた。

しかもこの《ひまわり》はゴッホの生涯で7点しか描かれていないという。
(厳密には花瓶に生けられた《ひまわり》が7点)

 

ええっ、そうだったの???

 

モネの《睡蓮》ほどではないにせよ、もっともっと、たくさん描かれていると思い込んでいた。たしか5年ほど前、オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館で観た記憶が蘇ってきた。あれも確か私は予習もせずにふらりと出かけたので、ひまわりを観たというおぼろげな記憶はあるものの、それ以上深く知ることは無かった。展示数がものすごく多くて疲れたことは覚えているがゴッホや他の作家の作品と紛れて記憶にとどまっている程度だった。

ゴッホのファンには申し訳ないけれども。

 

さて、話をを戻すと、ゴッホの《ひまわり》は7点あって、そのうち現存するのは6点だという。

「現存するのは6点だけ」

こうした限定数の印象が人に与える「希少価値」という魔法は、ときに強烈なインパクトを与える。

 

とたんに、何やら落ち着かない気分になってきた。

 

まさに今、ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展、と メトロポリタン美術館展が開催中だが、いずれにもフェルメール作品が来日中。
フェルメールは現存する作品が35点(諸説あり37点とも)と言われているのは有名な話。

 

似たようなケースが他にもあったような記憶が・・・?

目の前にはゴッホの《ひまわり》があるのに、なかなかゴッホに集中できない。

うーん、なんだったっけ?

 

ああ・・・そうだ、レオナルド・ダ・ヴィンチだ!!

 

ポーランドのクラクフで観たダ・ヴィンチの《白貂を抱く貴婦人》だ。
ダ・ヴィンチは絵画を生涯11−16点(これも諸説あり20点とも、11点とも言われている)しか描いておらず、その秘められた謎に惹かれる人は少なくない。

誰もが知る《モナ・リザ》、そして《最後の晩餐》に《受胎告知》などなど…

(あの時は館内には私ともう1,2人しかおらず、何分も妨げられることなく鑑賞に時間を費やせたとても贅沢な時間だった)

巨匠たちの作品の、それも世界に限られた点数しかないという事実を知ると、そこに付加価値が加わる。そうなるとまだ見ぬその先の作品も観てみたい、達成感を味わいたい、という欲求が出てくる。マニアやコレクター心理といえば大げさかもしれないが、それに近い性質であると思う。

ゴッホの《ひまわり》も同じようなものだな・・・と、フェルメール、ダ・ヴィンチとひととおり思い巡らせて、ようやく目の前のゴッホに集中することができた。

 

SOMPO美術館の《ひまわり》

SOMPO美術館の《ひまわり》は企画展をひととおり観終わったあとの最後の展示コーナーに鎮座していた。その直前には東郷青児の作品が3点ほど。この展示コーナーが財団のコレクションを展示するコーナーのようだ。

作品の、その姿。
隆々と盛り上がる色鮮やかな油絵具で描かれた光沢を放つ黄金の花弁。観る側に迫ってくるひまわりの強い表情、ゴーギャンとの出逢いが制作に大きな影響を与えたといわれる一連の《ひまわり》であるが、一時期にせよゴッホの人生をゴーギャンが豊かにしたことは有名な話で、目の前の作品からは文字通りの生命力さが溢れており、描かれるそのタッチはまるで日に焼けた男性の筋肉質な腕を想像させる。
あとあと調べてみたところ、このひまわりはゴッホが自らの耳を切り落としてしまった後に描かれたものだそうで、ちょっとゾクっと背筋が寒くなった。

頑丈なガラス張りで展示されていた《ひまわり》であったものの、周囲には殆ど人もおらず、邪魔もされず十分すぎる時間をかけて堪能ができた。これほど名画をじっくり鑑賞できるなんてなんて幸せな時間なのか、と。

つくづく、アムステルダムのゴッホ美術館の《ひまわり》を、いともアッサリと観て終わってしまったことが悔やまれる。それほどまでに《ひまわり》の印象が全く残っていない。

それはそうと、残りの5点はどこにあるのだろう?

 

ゴッホの《ひまわり》の残りの5点はどこに?

7つのゴッホの《ひまわり》の所蔵先を調べてみたところ、以下の7ヶ所にあることがわかった。

  1. ロンドンのナショナル・ギャラリー
  2. ミュンヘンのノイエ・ピナコテーク
  3. アムステルダムのゴッホ美術館
  4. フィラデルフィア美術館
  5. SOMPO美術館(東京)
  6. 個人蔵(アメリカ)
  7. 消失(日本の実業家、山本顧彌太が購入するも太平洋戦争で消失)

なんてこと!!!

アムステルダムと東京以外で、ロンドンとミュンヘンでも私は《ひまわり》を観ているらしいのだが、まったくといっていいほど記憶が無い。(ナショナルギャラリーはおそらく7年前、ノイエ・ピナコテークは25年前と8年前に訪れている)

この事実に、少なからずショックを受けたのは正直な気持ち。。だが、後悔先に立たず、自分の無計画さ、予習はおろか復習も中途半端過ぎて、呆れるしかない。

また、いずれの機会に観に行けるだろうか・・・。

ロンドンもミュンヘンもアムステルダムも再訪する機会はこれからもあるかもしれない、フィラデルフィアも・・いずれ訪れるかもしれない。あるいは、ひょっとしたら向こうから来日してくれるかも、と淡い期待で自分を慰めるしかないが、
アムステルダムのゴッホ美術館の《ひまわり》などは、作品の傷みが深刻なため、もう海外への貸し出しはしないと言われているので、こちらから観に行くしか手立てはない。

名画はとの出逢いは、まさに一生に一度のチャンス、ということを改めて痛感させられた今回の経験。

冒頭の「予習」の話に戻るならば、小学校の予習はしなくてもいいが、名画は「予習」をして臨んだほうがきっと良い結果に落ち着くだろう。

・・・というわけで、近日中に行こうと思っている先の2つの展覧会は今から楽しみにしつつ、次回からは真面目に予習してから出かけるつもり。

 

東京のゴッホの《ひまわり》はSOMPO美術館にて常設中。(他館への貸し出し時を除き)

 

 

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